なぜ「エルサレムの街角から」の絵を描いたのか

千葉支部 佐藤 信さんより ご寄稿頂きました。

今から思えばちょうど1年前の6月初旬、私はイスラエルへ旅をした。社会人初年兵の頃に 日本経済社にいた(現千葉支部長の田川潔さんの部下として)すぐ上の先輩が急に会社を辞める ことになって急遽私が担当したのが日本電子メモリー(後のネミック・ラムダ)という会社だった。当時の社長が長年の夢を叶えたいとイスラエルの地に平和を願ったプラネタリウムを建設、その竣工式に誘われたためだった。「縁あっていまエルサレムにいます」といFacebookに書き 込んだら当時の仲間からも「何故だ?」とか「危険じゃないのか?」とかいろいろと言われたが、誘ってくれた社長から何回か電話をもらって、勇気を出して行って来た。

当時からそうだったが、イスラエルという国はハイテク産業がかなり進んだ国だ、私が担当 した頃にはスイッチングレギュレーターといって交流を直流化する電源を標準化し汎用性を 高めたのが時代のニーズにあって、東証二部に上場したと思ったらすぐ一部上場を果たした。実際にはテレビ信州に移った後のことだったけれど帝国ホテルの1,000人規模の記念パーティー で日経社当時、営業マンとして提案した社名ロゴが会場の真ん中にドーンと掲げられていた。あの時の感動は今でも忘れられない。

そんな会社の社長さんとその後も長くお付き合いして来た。テレビ信州の関西支社長の時だったが、長野の他の局に出稿があった大分県の焼酎メーカーのスポットを獲得したいといろいろと 検討していた時に大分の元知事の平松守彦さんのところにでも行けば可能性があるかもしれな いけどと聞いていて、さてどうしたものかと思っていた時に、たまたまその社長のマンションを 訪ねたら平松さんの本が置いてあるのです。聞いてみたらよく知っているとのこと、2週間後に はご一緒に、平松さんの一村一品運動の財団本部に伺うなど何かと日本経済社を離れてからもお  世話になって来た。先日もイスラエル大使主催の経済交流イベントがあって、「今はTDKラムダ という名前になっているけれど早い頃からイスラエルの会社と連携し今では立派な会社になっている。」と現社長が話をしていた。イスラエルは確かに厳しい状況下で国を勝ち取って来た国である。だが実際に国に入ってしまえば実に素晴らしい国であった。人々は和やかに日々の生活を楽しんでいる。食事も果物や乳製品などが豊富で肉料理の味付だけは最後まで慣れなかったのだけれど約1週間の旅を楽しんだ。

今回の旅の一番の目的は地中海に面した都市ネタニア市に寄贈したプラネタリウムその名も都市の名前にちなんで「プラネタニア」と名付けられた立派な施設のオープニング式典に参加することだった。そして、もう一つ、先の戦争でナチスドイツの手から逃れたユダヤ人をリトアニアの領事館でビザを発給し6000人以上のユダヤ人を救った杉原千畝さんを記念した道路がプラネタリユムに沿って完成して、スギハラチウネロードと命名、その式典にも参加した。

歴史あるエルサレムの地を訪れたのはそんな公式イベントを控えた日程だった。就任以来何かとお騒がせなアメリカのトランプ大統領も先日エルサレムを訪れ嘆きの壁に立ったが、この春の新洋画会展に私が出品させて貰った絵もまさにそのエルサレムの地を訪問した時のものだ。

ゴルゴダの丘から十字架を背負ったキリストが歩いたところ、その後も歴史の荒波に翻弄されたところである。聖墳墓教会という名前のキリストの墓のある教会から、ユダヤ教区の嘆きの壁に行く途中の古い街角を描いた。まるでそこに古の人々が歩いているような街の風情の中にちょっと賑わいを見せる市場があったり、杖をつきながら人生を物語る老人に出会ったり、体格のいい若者が談笑しながら歩いていたりと魅力的で不思議な街だった。そんな古代と現代が交錯する街並みに私は妙に親しみを覚えたのも正直なところである。

今回の展覧会初日に「この曲った鍵のようなものがちょっと変だ。」とどなたかに仰っていただいたが、実は描いた本人は「あの不思議な形のトタン板を支える鍵のようなものが描きたかったのだ。」そんな弁明はどうも届かなかったようであるが、まあそんなことはどうでもいい話だ、行かなければ分からない事だし、行こうといって誘ってくれたその社長と人生の長い旅の終盤で ご一緒させていただいたことにこころから感謝している。そして同じ旅に参加した旅仲間とも、その後もいいお付き合いをさせて貰っている。

今回、思い切って行って来たことでどんなに多くのことを学ぶことが出来たか計り知れない。

 ※↓↓実際に自分で撮影して来た写真です。(クリックで拡大できます。)

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