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春のいぶき 春の女神

このグループ展へ出品:太田 英博

 

『この世界の片隅に』

森岡 義久 神奈川副支部長から、たより を届けて頂きました。HP掲載への許可をもらいましたのでアーティスティックな話題を2回にわたり皆様にお届けします。皆様からのお便りも、お待ちしています。
(管理人)

『この世界の片隅に』
飲み会で上京したついでに、アニメ映画『この世界の片隅に』を見た。
昨年の11月から新聞に7回ほど紹介記事があり、どれも絶賛、「必見の一作」とあった。もうブームも過ぎているだろうと気楽に出かけたが、この日の新宿ピカデリーはまだ大入りで、1時間ほど前に行ったにもかかわらず前列の2列が残っていただけだった。
この席から目の前の大画面を見上げるのはつらい。CMや予告は目をつぶっていたが、本編が始まるや最初の水彩画調の美しい画面に目を奪われ、あとは首のことは忘れて食入るように見た。
話は、広島市生まれで昭和18年に呉市へ嫁いだ浦野すずの日常を描いたもの。
絵を描くことが大好きで少々おっちょこちょいのすずが、嫁ぎ先で海軍事務官の夫・北條周作とその父母、小さな女の子晴美を連れて実家に戻ってきている周作の姉の径子などと暮らしていく。が、戦争の激化とともに配給品が減るなど日増しに苦しくなる暮しの中で、着物を裁ってもんぺにし、野草を摘んでお菜にするなど工夫しながら懸命に生きていく。離婚して何かと屈折した思いがあるのか、径子はすずにつらく当たるが、夫やその両親など登場人物がみないい人であり、とりわけ幼い晴美が実に可愛らしい。
昭和19年に入ってから軍港の呉は連日米軍の空襲に見舞われ、晴美はその犠牲となりすずも右手を失う。さらに8月6日の原爆投下、巨大なきのこ雲を呉の地から望み、そして終戦。兄は南方で戦死、実の親を原爆で失い妹も原爆症に罹るなど、平凡な市民生活が戦争に蝕まれていくが、声高に反戦を叫ばないだけに却って訴えるものは重い。 もっとも、政治など大きな動きに無関心で流されて行ったといえば、今も変わらないが。
原作はこうの史代、監督は片淵須直。主人公・北條すずの声はのん、この人は『あまちゃん』の能年玲奈と知った。広島弁が心地よく響く。
監督は徹底的な時代考証の上に細部のリアリティーに拘ったというが、広島や呉の街の描写が丁寧で、スケッチブックを手放さないすずの絵が随所に出てくること、猫やトンボ、蝶々に鷺などがさりげなく画面に登場するのも和ませてくれる。それだけに、戦闘場面の高射砲や機銃掃射の不気味な音は迫力があり、日常との対比を印象付けている。
晴美のあどけない仕草に笑みを誘われ、彼女の死と母径子の歎き、すずの自責の姿、さらに焼け跡の広島で戦災孤児の女の子を連れて帰るすずと周作の姿など、何度も涙がこみ上げてきた。確かに必見の一作だと思う。
呉にはその昔一度立ち寄ったことがある。P社かA社の出張だったか、ビッグバードでサッカーを見た時だったか、広島へ行ったついでに江田島に渡り海軍兵学校の跡を見て呉に寄った。帽子屋で潜水艦「はやしお」の軍帽を買って帰ったが、いつのことか忘れた。          29.01.19

『則天武后』

引き続き森岡 義久 神奈川副支部長からの たより から、こちらのブログに掲載させていただきます。歴史小説を読むたびに、想像が豊かになり絵に生かせそうな気持がするのは私だけでしょうか?  (管理人)

『則天武后』

氣賀澤保規氏から頂いてあった『則天武后』(講談社学術文庫)を読んだ。

彼は高校の後輩(昭和37年卒)で京都大学に進み、卒業後は富山大学と明治大学の教授をつとめた後、現在は東アジア文化研究所代表、明治大学東アジア石刻文物研究所所長として引続き隋唐期を中心とする中国史の研究に携わっている。

「学術文庫」と聞いて固い学術書と思ったが、歴史上の事実を丁寧に叙述しているのは当然ながら、それを物語風な記述を織り交ぜているから読みやすい。

書き出しの則天武后の死を告げるところからして、「その日は、乾いた北風の吹く寒い冬の日であった。ここは、唐の洛陽城を出たところにある上陽宮という別宮、その奥深くの仙居殿で、いま、一人の老女が息を引き取った。」と言った調子である。                                    全体は21章からなるが各章が短いため、寝る前に1~2章を読むのに丁度よい。また関係する写真や地図、系図などを随所に掲げて理解を助けてくれる。

それにしても登場人物は多く、地名や人名その他に普段目にすることのない漢字が使われており、こうした専門知識を体系的に整理している著者の頭の中には驚く。

則天武后はその昔の世界史の授業で名前は知っているが、西太后と混同するぐらいで詳しいことは知らない。ともに中国の3大悪女(他は漢の高祖劉邦の皇后だった呂后)の由だが、西太后は清朝末期の光緒帝の養母で、日清戦争に敗れた国の前途を憂える康有為や孫文らの青年知識層が進めた政治改革に対し、保守派貴族たちの意を受けて改革派を潰し、結局、義和団事件さらには辛亥革命と清朝を滅ぼす道を開いた頑迷反動の人とされる。反対派つぶしには残忍な処罰で臨んだという。

則天武后(武即天)は隋のあと李淵(高祖)が開いた唐王朝で、武氏という本流の李氏でない出自ながら、2代太宗(李世民)の後宮に入り、3代高宗(李治)の皇后として、またその死後は子の中宗(李顕)や睿宗(李旦)の皇太后として辣腕を振るったのち、ついに初の女性皇帝となって国号を周に変え(武周革命)専制政治を行った人として名を残している。いずれ天下を取るという野望のために周到な準備を積み重ね、酷吏による告密といったスパイ網を張り巡らせて、ライバルと見れば政敵はもちろんわが子さえ容赦なく殺す。イヤハヤ、まさに帯に言うとおり、猛女・烈女・姦婦・悪女でもある変革者だった。

著者は「何故この時期、かくも烈しくまた強靭で存在感のある女性が登場しえたのか」と問い、「その大きな理由は唐朝の特質、純粋な漢民族の国家でなく個人的人間関系、恩寵的関係を容認する体制上のゆるさ、その上に魏晋以来の突厥や匈奴ら北族(そこでは女性が強い)の影響が重なる空気の中で形成された」としている。太宗の時代は「貞観の治」だったのに、である。

国家はもちろん、集団を統治するには理念と共に権謀術数や非情さが必要だろう。それは古今そして洋の東西共通とはいえ、現代に続く中国に特に強いのではと思いつつ読んだ。

                                                                                                             29.01.19

 ブログ・アーカイブ

第14回 東海支部展

白南風の会展 (銀座)

 

第16回 アートステンシル協会 合同展

出品:小島 洋子


冬の旅人空想旅行

出品 太田 英博

 

白南風の会展 2017(横浜)