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『則天武后』

引き続き森岡 義久 神奈川副支部長からの たより から、こちらのブログに掲載させていただきます。歴史小説を読むたびに、想像が豊かになり絵に生かせそうな気持がするのは私だけでしょうか?  (管理人)

『則天武后』

氣賀澤保規氏から頂いてあった『則天武后』(講談社学術文庫)を読んだ。

彼は高校の後輩(昭和37年卒)で京都大学に進み、卒業後は富山大学と明治大学の教授をつとめた後、現在は東アジア文化研究所代表、明治大学東アジア石刻文物研究所所長として引続き隋唐期を中心とする中国史の研究に携わっている。

「学術文庫」と聞いて固い学術書と思ったが、歴史上の事実を丁寧に叙述しているのは当然ながら、それを物語風な記述を織り交ぜているから読みやすい。

書き出しの則天武后の死を告げるところからして、「その日は、乾いた北風の吹く寒い冬の日であった。ここは、唐の洛陽城を出たところにある上陽宮という別宮、その奥深くの仙居殿で、いま、一人の老女が息を引き取った。」と言った調子である。                                    全体は21章からなるが各章が短いため、寝る前に1~2章を読むのに丁度よい。また関係する写真や地図、系図などを随所に掲げて理解を助けてくれる。

それにしても登場人物は多く、地名や人名その他に普段目にすることのない漢字が使われており、こうした専門知識を体系的に整理している著者の頭の中には驚く。

則天武后はその昔の世界史の授業で名前は知っているが、西太后と混同するぐらいで詳しいことは知らない。ともに中国の3大悪女(他は漢の高祖劉邦の皇后だった呂后)の由だが、西太后は清朝末期の光緒帝の養母で、日清戦争に敗れた国の前途を憂える康有為や孫文らの青年知識層が進めた政治改革に対し、保守派貴族たちの意を受けて改革派を潰し、結局、義和団事件さらには辛亥革命と清朝を滅ぼす道を開いた頑迷反動の人とされる。反対派つぶしには残忍な処罰で臨んだという。

則天武后(武即天)は隋のあと李淵(高祖)が開いた唐王朝で、武氏という本流の李氏でない出自ながら、2代太宗(李世民)の後宮に入り、3代高宗(李治)の皇后として、またその死後は子の中宗(李顕)や睿宗(李旦)の皇太后として辣腕を振るったのち、ついに初の女性皇帝となって国号を周に変え(武周革命)専制政治を行った人として名を残している。いずれ天下を取るという野望のために周到な準備を積み重ね、酷吏による告密といったスパイ網を張り巡らせて、ライバルと見れば政敵はもちろんわが子さえ容赦なく殺す。イヤハヤ、まさに帯に言うとおり、猛女・烈女・姦婦・悪女でもある変革者だった。

著者は「何故この時期、かくも烈しくまた強靭で存在感のある女性が登場しえたのか」と問い、「その大きな理由は唐朝の特質、純粋な漢民族の国家でなく個人的人間関系、恩寵的関係を容認する体制上のゆるさ、その上に魏晋以来の突厥や匈奴ら北族(そこでは女性が強い)の影響が重なる空気の中で形成された」としている。太宗の時代は「貞観の治」だったのに、である。

国家はもちろん、集団を統治するには理念と共に権謀術数や非情さが必要だろう。それは古今そして洋の東西共通とはいえ、現代に続く中国に特に強いのではと思いつつ読んだ。

                                                                                                             29.01.19

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